「対話と協調」の時代

予算総額の約1%を占めている議会。意思決定機関としてはおおよそ必要な予算総枠は確保されていると考えているし、決して小さな額ではない。北名古屋市の場合、そのなかで定数24人の議員がそれぞれの考えで活動をしている。

しかし市民の方からは「何をしているのかわからない」「どんな活動なのか見えない」という声を、まだまだたくさんいただいている。

はたして、現況の議会のあり方で十分なのだろうか?行政関係者が理解する議会のあり方と「市民の求めている議会」の在り方、その機能や役割にすれ違いが生じているのでは、と考えることはできないだろうか?何よりも議会としてそれで十分に市民の代表者としての役割を果たせているのか?その効果検証は唯一、選挙の機会になるわけだが、「知っているから」といった理由での投票をする選挙が効果検証の手段として十分機能的であるといえるのだろうか?答えの無い問いかけであるが、わたしの心の片隅には常にこの疑問が住んでいる。

そこではたして、行政と議会はどのような関係性であるのが良いのか。

地方自治法のうえでは、議会の議決がなければ市長はかなり大幅に行動を制約される。そのことから議会は市長よりも強い権限をもっているともいえる。しかしながら、実際の議会をみるとどうだろうか。本会議場での討論はなく、市長当局から提示された議案に賛同することが中心の運営がなされている。事実上、本会議にはすべてが決まってから議案が提出されている。「議案」として市長当局から議員に提示された段階で「これは何月何日から事業を開始しますよ」という決定稿になっているのである。本当に相談したいことなどは水面下での個別の折衝で調整されている。そういう意味では熱心な議員活動をすればするほど、情報を公開して議論をすすめよう、というトランスペアレンシーの方向性と真逆にすすんでしまう。そして大事なことや異論があることほど、なぜか本会議や委員会で議論がなされないことが多い。(こうした際に意見に反対する議員さんと事前に個別で話しをして意見を聞くことを「ガス抜き」と呼ぶことがある。ヒートアップされてしまうと困るので、事前にどんな意見を述べられるつもりか?とヒアリングをかけられるのだが、この「ガス抜き」をされると、会議場では意外なほど喋れなくなる…。なぜだろう?とても不思議な体験。)

さて本来、議会は複数の価値観の持ち寄りで討論され、価値判断をすすめる場である。したがってわたしは「反対」でも多数の方が「賛成」となれば議会は「賛成」として行動することを求められる。また決定機構であるとするのであれば、結果に対する責任の所在、また短期・中期的な評価の機会を設定しておかなければならないはずである。「意見をいったよ」と行政に丸投げする議会であってはいけない。わたし個人の考え方としては、行政内部による施策・事業評価だけでなく、議会による評価がなされるべき、とまで思っている。

そんなことを実際に行うためには、市民の方との意見交換がもっと重要性を帯びてくる。市民のかたとの積極的な「対話と協調」により事業が評価されるべきである。しかし、現況の制度設計のままでこれを行うと、ごく一部の意見ばかりを拾い上げることになる。市民の大半をしめるサラリーマンが平日日中に議会で意見を述べる機会をつくるということは現実的ではないからだ。

だからこそ、ITで情報をシェアし、ソーシャル・ネットワークでアイデアを交流する。そういう活動だって簡単に出来る。議会議員は市民代表であり、議会議員が議事を独占する根拠なんてどこにも無いからだ。いろんな意見が共有できれば、一緒に活動しようとする動きが生まれてくる可能性がある。時間と場所を選ばないIT/インターネット技術の得意とする分野だ。遠くない将来、SNSから地方議会議員の活動と地方自治の姿が必ず変わる日がやってくる。それが楽しみだ。