公共の場としての公園とインクルーシブの本質

「公園は行政が整備しなければならない」という固定観念は、そろそろ見直してもよいのではないだろうか。例えば、ららぽーと安城の屋上にある「おくじょうひろば」は、日本一の遊具数を誇る素晴らしい民間施設である。

この広場は、我が子にとっても最高の遊び場のひとつだった。しかしながら、我が子に言わせれば「どんな遊具があるかよりも、一緒に遊んでくれる人がいることのほうがはるかに重要」なのだそうだ(あくまで我が子という、たった一人のサンプルではあるが)。

我が子の遊び方を観察していると、さまざまな発見がある。北名古屋市内の公園や児童館に行くと、初めて会った子ども同士で丸一日楽しく遊んでいることがある。特に児童館では遊びのバリエーションも豊富なためか、帰宅を促しても一向に帰ろうとせず、夢中になって遊んでいる。親としては少し困り果てるものの、それほど楽しんでくれたのなら喜ばしいことだ。一方で、小規模な児童遊園などでは、せいぜい1時間程度しか長続きしない。

後で「今日は楽しかった?」と尋ねてみると、「今日一緒に遊んだお友達とまた遊びたい」という答えが返ってくる。こうした様子から、子どもの満足度においては「施設や遊具の充実度」よりも「遊びの内容」、そして何よりも「誰と遊ぶか(遊び相手)」が最も重要視されていると推測できる。

例えば、庄内緑地公園に設置されている、ただ円盤をくるくると回すだけのシンプルな遊具がある。ここへ行くたびに、見知らぬ子ども同士が仲良く遊んでいる光景を目にする。保護者も子どものために必死になり、汗をかきながら遊具を押して回している。私も一緒に遊具を回しているうちに、その場にいる保護者と子どもたち全員の間に、不思議な一体感が芽生えているのを感じるのだ。そして、別の遊具へ移動する時や帰宅する際には、互いに笑顔で「ありがとうございました」と声を掛け合って去っていく。

この場所を訪れるたびに、私は何度もそんな経験をした。顔見知りですらない赤の他人が、なぜこれほど自然に笑顔を交わすことができるのだろうか。

その理由は、保護者が「遊具を回転させる」という役割を担い、適度に身体を動かしていることにあるのではないだろうか。身体を動かすことで精神的にも高揚感が生まれ、さらに子どもの手前、親としても社交的に振る舞おうとする。そうした要素が組み合わさることで、子どもを介した一時的な「善意のネットワーク」が形成されるのだ。このような偶発的な出会いが何度か繰り返されるうちに、子どもたちだけでなく、彼らを通じて保護者同士にも面識が生まれていく。

これこそが、理想的な公園と遊具のあり方ではないだろうか。

したがって、行政が公園を整備する際、維持管理のコストだけでなく、「たまたまそこに集った子どもや保護者同士が、一緒に遊ぶきっかけとなるような遊具」を組み込むことも考慮すべきだと私は考えるようになった。

昨今、公園の遊具において「インクルーシブ」という概念が注目されている。これは、健常な幼児だけでなく、身体機能に障害を持つ子どもも一緒に遊べるようにするという考え方だ。

しかし、本当のインクルーシブとは何なのだろうか。ただ同じ場所にいるというだけで、心が分断されたままであれば、それはすれ違うだけの赤の他人にすぎない。これでは誰も「包摂」していない。インクルーシブ公園として整備された施設を視察した際に感じた、あの心のモヤモヤとした違和感の正体が、ここにきてようやく言語化できた。

私が公園に求めていたのは、そこが「公共の場」であり、子どもたちが身体機能を大いに発揮して活動できる場であることだ。つまり、本当に求められているのは、単にインクルーシブ規格の遊具を設置することではない。そこに集う住民の行動を促し、面識のない者同士を結びつけるような「仕組み」をデザインすることなのである。

行政職員がインクルーシブな公園を計画する際には、費用や安全性だけでなく、「利用者の心の動きを設計に組み込み、それがどのような結果をもたらすかを評価する」という視点を最重要要素として取り入れてほしいと、強く願っている。

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